パーティーは続く、君がいないままで
『ブーン、ブーン』日曜日の午前、 スマホの無機質な振動で 起こされる。DJあけ、 仲間と朝まで過ごしたせいで、胸には重たい胃もたれと、微かな後悔が渦巻く。寝ぼけ眼でLINEを開いた。 DJ CANが、亡くなった──。 実感が、湧かない。 いや、信じたくない一心で、無意識に彼のことを思い出さぬよう蓋をした。だが、頭の中はグルグルと回り続け、どうにもならない。 ならばと、あえて逆のことを試みた。スマホの写真を遡り、記憶の引き出しを片っ端から開けていく。今、この胸にある彼との思い出のすべてを、ここに刻みつけておこうと筆を取った。 俺たちが初めて同じターンテーブルを挟んだのは、横浜BRIDGEだった。確か、俺がミックステープ『WHIZZ』を出し始めた2004年頃。当時、フライヤーで顔だけは知っていたCANは、ブロッコリーのようなアフロヘアがトレードマークだった。ダボダボの出で立ちから、てっきり西海岸のG-Funkでもかけるのかと思いきや、流れてきたのは意外にもニューヨーク寄りの硬派な選曲。そのギャップに、思わず唸ったのを覚えている。イベントの終わりに言葉を交わせば、見た目とは裏腹に気さくなナイスガイで、しかも同い年だと知った。 2007年頃からは、元町LOGOSの水曜のイベント『Y-Rep』で、毎週顔を合わせた。その後、俺が担当曜日を変えていっても、時折同じイベントにブッキングされては、互いのプレイに刺激を受け、DJとして切磋琢磨した仲だった。 今でも鮮明に覚えている光景がある。 2010年頃の、ある夜。LOGOSの入り口で、二人して地べたに座り込んで語り明かした。年々スケールダウンしていくクラブシーンに、当時の俺は少なからず倦怠感を覚えていて、彼によく愚痴をこぼしていた。 「なんかさ、DJやる気しねぇんだよな。現場は好きなんだけどさ」 そんな俺の言葉を、CANはまっすぐに見つめ返しこう言った。 「UEは、絶対にDJやらなきゃダメ。俺は、UEやKENTAがいるからDJをやってるんだから」 寝耳に水だった。 彼は続けた。ミックステープを出し、クラブのメインタイムを任され、DJで生計を立てる。そんな俺やDJ KENTAを、ずっと目標にしてきたのだと。「同世代で、自分より先を行く奴が横浜にいる。それがめちゃくちゃ悔しくて、だからこそ負けたくなかった」 酔いがそうさせたの...